Borneo Indonesia
Samarinda 20021226
サマリンダでの暮らしと学び/
Learning with a living in Samarinda
2002年12月26日(木)
マイルーム/My room


出かけるはずだったが、雨が降っていくことができない。車が走れなくなるところらしい。一日下宿で、いままでの記録整理をすることにした。
下宿で昼食をとることにはなっていなかったので、自分で伝えなければならない。今日はもう家の人がみんないない。有薗ももう出かけた。9時ごろ水をもらいに1階に下りて、なんとか食べさせてもらわなくては。
まず水だ。お手伝いのヌヌンという小さい女の子に「ヌヌン、マウ・・・・」。水の単語を忘れてしまったので、持っていた水のボトルを差し出して。水はもらえる。次に昼飯だ。「サヤ マウ マカン シアン」といったら、もうお腹がすいたのかという具合に、手をお腹にあてて首をかしげたが、シアンをもう一度行ったら、「ya」と答えて、分かってくれたようだ。
12時にちゃんと食事がきた。「テリマカシ ヌヌン」「ya」。



パソコンで日記と写真の整理を続けていると、有薗が帰ってきた。昨日するはずだった買い物に出かけてくれるというので、一緒にでた。
ここへ来て、下宿生活で大変困ることが生じてきた。もともと、下着も服も4組しか持っていないし、雨季のせいで洗濯物の仕上がりが遅いので、着るものがなくなってしまったのだ。
シャツ2着とパジャマ用Tシャツ1着、靴下3足を買った。今日の買い物は町の店舗。スーパーではない。いくらですかは言えても、そのいくらかが聞き取れなければならないが、どうにもわからなかった。有薗を呼んで助けてもらった。タバコぐらいなら、なんとでもなるが、まだ普通の店では一人で買いものはおおごとだ。
有薗のプリンタを修理にだしているが、なかなか終わらないのでPCショップに見に行きたいというので付き合った。そういえば、この話はこの前聞いていて、それなら新しいのを俺が買って、しばらくお前がつかっていればいいといった。新しいのはいくらなんだ。
PCショップといっても、間口1間、奥行き1間の小さい店、隅の方におやじの座るデスクがあり、商品の陳列もなく、箱と古いPCやディスプレイが積んであるだけ。
修理の様子を聞いてみると、案の定仕上がりは、遠い先のことらしい。新しいのを買うしかない。CanonのS-100spという箱がおいてある。ちゃんとXp対応だ。ところで日本語がでるのか?店のおやじは「分からない」。不安だったので試してみることにした。試すといっても商品のパッケージを全部開けるので、だめだったらどうするのだろう?店のおやじは平気な顔。
ところが一言、「全部600,000Rp、そのうちプリンタは200,000Rp、インクカートリッジが400,000Rp、だめでも400,000Rpは出せ」。なるほどそれなら損はしない。損するのはこっち。それにしてもプリンタよりカートッリジの方が高くて、プリンタはたったの200,000Rpか?日本円にすると・・・・3,000円ぐらい。だめもとでやってみたらテストプリントも、有薗健史の文字もちゃんとでてきた。
アブ先生に「今日は何時にきますか」と電話で尋ねたら「もう行く」とのことだったので、面白いPCショップだったが、あわてて帰った。
ウリンの屋根材問屋/
Ulin wood roofing shop


アブ先生と一緒に行ったのは、弟さんの家。弟さんの息子もアブ先生の教え子だとか、その息子が麻の栽培と加工をしているので現場を見に行こうと思いついたのだとか。しかし、息子曰く「麻は安すぎて儲からないからやめた」だそうだ。栽培地も処分したとのこと、見にはいけなくなった。代わりに、家のどこからか麻の繊維を山のように持ってきて見せてくれた。日本が最も高く買っているそうだが、ブローカーが間に何回も入るので生産者側は安くたたかれ、儲けにならない。売るのも作るのもやめたほうが良いとの結論だった。
「次はウリンを見に行こう」。テツボクの屋根材を売っている建築問屋へ行った。山と積んであるウリンの屋根材。これはいくらかと尋ねれば1㎡分で25,000Rp。今はサマリンダでこれを使って家を建てる人はいない。高すぎるのだそうだ。ほかの屋根材もここにおいてあるので、見てみるとトタンの平板、波板のほかに、トタンでできた瓦型の加工品、スレート、アスベストで作った瓦型の加工品などがあって、一般庶民はこれらを使うのだそうだ。ウリンの屋根材はもっぱらジャワに運ばれ、お金持ちの家の新築や、観光用施設などに使われるとのことだった。



デルタマハカム/
Mahakam Delta
2002年12月27日(金)

朝からデルタマカハムの様子見に出かけた。スピードボートで見学するしかないところなので、その下見だということだ。車で河岸の海老の加工場に着いた。ついでにこの加工場を見学。ここには日本人も働いているという。ブラックタイガーのような、クルマエビのような、大きめのと、小さめのと、5種類ぐらいのものが、人間が1人入りそうな大きさの樽の中ではねている。もちろん日本向けの輸出もあるが、海老を良く食べるのは、中国系。マレーシア、シンガポール、中国が主な輸出先らしい。日本向けはその次。前にアブ先生に聞いた話とはちょっと違う。しかし、日本へ売るのが一番金になるとか。「どうだ、買わないか」ここでもこれか。
加工場の周りで、スピードボートの案内人を見つけて、目的達成。下見終了。この辺では、ところどころにタワーが建っている。このタワーは、石油の採掘用だということだが、今では使われていないそうだ。公園のような場所にパイプから炎の上がっているところがあった。大きな汲み上げ井戸のような装置が野ざらしになっている。昔の西部劇でみたような気がする。タワーより前の時代の採掘装置らしい。メモリーとして展示してあるものだとか。








午前中に帰り、帰る前に弁当を買ってもらった。下宿へ戻って部屋に入り、弁当を買ってきたことを伝えに行ったら、ヌヌンがメシを作っていた。「オオ、マカナンニャ、サヤ」「ヤ、キタイ」「オオ、テリマカシ」。いらないとはいえないし、言い方も知らない。結局昼2食、また太るぞ。
午後は買い物に出る。買い物は、なんとなく楽しい。今日はスーパーマタハリ、小物を入れる箱2つに、ベッドサイド用のデスクライトと電球、香取線香、電源コード、吸盤つきのフック、S字フック・・・細かいものばかり、これで部屋は完成する。これ以上ものを買っては、快適になりすぎて5月に帰りたくなくなるかもしれない。日本の自分の家の部屋よりいい。
ダヤックの文化/
Traditional culture of dayak
2002年12月28日(土)
アブ先生事務所で、勉強だけ。研究室人たちの要望が多くて、日本の仕事もしている。年内中におわらせておかなくては。もっとも、こちらにはNEW YEARを迎える重さなどかけらもないのだが。
早めに事務所を引き上げて、銀行へ行った。そろそろアブ先生に私を面倒見る費用として、1,000万Rpぐらい預けなければいけない。例のATMの10万Rp専用機で250万Rpずつ4回引き出した・・・つもだった。車に戻り、渡す前に念のため勘定してみたら、80枚しかない。あせった。あわててレシートを見ると、見方もよくわからないのだが、200万Rpを4回引き出しただけだった。確かに250万Rpのボタンを押したのにな?変だ。とりあえず800万Rpをアブ先生に預け、また明日残り200万Rpを渡すことにした。
2002年12月29日(日)

午前中、下宿で写真の整理、友人たちへのメール。
昨日アブ先生は「明日はいけるかどうかわからない、電話します」ということだったので、ゆっくりしていた。多分こないだろうと思っていたのが3時ごろやってきて、「オリエンテーションを始めます、1デルタマハカム、2ダヤックのカスタムダンス、3ルンパケ、ひとつセレクトしてください」デルタへいってボートに乗るにはもう時間がないし、ルンパケは1日いたいところだし、ダヤック族の観光施設見学を選んだ。アブ先生は日曜日も私の相手。「奥様に叱られるでしょ」と聞けば「もうすんだ」とか。いいのかな本当に?





ダヤックのダンスはそれなりに面白いが、本当に踊れる人は3人ぐらい、残りは修行中のひとが5-6人いて、周りを見ながらその場でまねしている人が2-3人混ざっている。にわかショーダンスという感じだ。けして洗練されたものではない。いったん消えてしまった伝統を、観光のためにみんなで復元している最中のようだ。
これは、ダヤックの新しいアイデアだとか。観光客の多くは国内の人ばかりのよう、外国人は私と、ヨーロッパ人のようなグループがいただけ。サマリンダ自体、観光のために来る人はいないので、外国人ならばおそらく仕事の関係でこちらに赴任してきているひとだろうと言うことだ。
施設は郊外の丘陵地帯にあって、ダヤック族の入植地に作られたものだった。入植地は、ジャワからの移住、セレベスからの移住の別に区分されている。ダヤックというのはカリマンタンの先住民という意味だそうだ。だから、本来の部族という意味では、ダヤック族をさらに細分化する必要があるが、あまりに多すぎるのでまとめて呼んでいるそうだ。ダヤックの人として紹介される人には中国系、というより日本系の顔つきをした人が多い。顔色も日本人みたいに白い人までいる。不思議なものだ。
土産ものなど見て、あたりを見回していると、ドアを作っている人がいた。見に行くと、シュンケイ材で作っている。年輪があって、きれいな木目をしている。チークと同じ仲間だという説明を受けたが、チークより色は白い。むしろ日本人好みだと思う。ところがこのドア、木目など見えないように焦げ茶色のペンキで塗りたくってしまっている。せっかくきれいな木目なのに。インドネシアの人はこの色のペンキがすきらしい。そういえばどこにいってもこの色だ。ここで使うためには塗装は欠かせないのかもしれない。それならクリアー塗料を使えば?高すぎるのかな?勝手にいろいろ考えたが、人の仕事にけちをつけてもしかたない。「もし日本人に売る機会があったら、ペンキは塗らないほうがいいよ」とアブ先生に言ってもらった。


見学を終えて今日も銀行へ、200万Rpを渡して、合計1,000万Rpを預けたことになる。なにに使われていようが構わないが、足りなくなってはいけない。日本にいるときに送った金はもう使い果たしたはずだ。アブ先生は「まだだいじょぶ、まだだいじょぶ」と言っていたので、その気になっていたが、時間はどんどん過ぎていく。渡すのがちょっと遅すぎたかも知れない。
インドネシア滞在のためにいままでいくら使ったのかな。金の計算をする必要がある。
明日は朝早くからセミナーがあるので参加せよとのアブ先生の命令だったので、夜は早く寝ようと思ったが、高橋智美、渡辺・杉田の仕事があったので、結局夜更かししてしまった。渡辺・杉田の分は問題があって、宿題を残した。
地域開発研究セミナー/
Reseach seminar
about the development of east Kalimantan
2002年12月30日(月)
東カリマンタンの地域開発研究所でセミナーが開かれ、出席した。言葉が分からないので出ても無意味だし、後ろの方で聴いてる振りでいいかなと思っていたが、講演者の一人がアブ先生ともなれば、そうはいきませんよと、一番前の来賓席のようなところに座らされた。おまけに、ビデオカメラやカメラがこちらを向く。その中で、まったく分からない言葉で書かれたレジメとプレゼンテーションを見ているのも大変な仕事だ。

アブ先生が毎日熱弁するアグロフォレストリーの意義について書いてみた。
アグロフォレストリーは、基本的に木材生産と農作物生産を複合する農林複合経営と考えてよい。日本で考えれば、学校の苗圃で樹木間にサツマイモ育てていることが、それに等しい。九州地方には木場作という言葉があり、苗木を植えた間におかぼを育てる手法がある。例はまれであるが、日本にも農林複合経営の姿が認められる。
あまりに、苦痛なので、聞いている振りをしながら、レジメの裏をつかって、今まで見てきたアグロフォレストリーの整理を始めた。やっているうちに、この場所を借りて、自分がアグロフォレストリーの講演をしているつもりになってきた。
日本と異なることは、インドネシアにはアグロフォレストリーをしなければならない背景が存在することである。熱帯林に関して流れてくる代表的な情報は、森林の減少である。インドネシアも例外ではなく、近年急速に森林伐採が進んだ。これにあわせて、広範囲に及んだ伐採跡地帯への入植・移住政策がとられ、農業生産拡大が実行された。
農地の構築は開墾事業から始まるが、開墾のみでは永年耕作は不可能である。ただ耕作を続ければ、数年で土地は養分を失い、収穫不能になる。肥料を投じれば良いと考えるのは当然であるが、日本のように化成肥料を湯水のようにまき散らすほどの経済は、現在のインドネシアには成り立たない。畜産との複合形態をとれば、畜産事業地の周辺に限って施肥は容易で農地も成り立つ。しかし、入植農家が農畜複合経営を開始できる経済的背景もなく、たとえ可能であっても、施肥の可能な家屋に近い部分に限られる。広範囲に及ぶ伐採跡地を全て畜産との複合経営で農地化することは困難である。専用農地の構築は肥料無しではなりたたない。
この肥料を森林に作らせるという発想がアグロフォレストリーである。森林を伐採して開墾した当初は土壌に養分が蓄積されている。この養分を利用して耕作を行い、同時に植樹を行う。土壌表層の養分は時間とともに流亡するので数年間のみ継続し、以降は森林造成に転じる。 数十年後には、森林が成立し、木材の利用価値が生まれ、この時点で土壌表層には再び養分が蓄積されている。ふたたびこの土地を伐採開墾し、植樹と同時に耕作を開始する。耕作停止から森林成立のまでの間は、別の土地で同じことを、順次繰り返し行っていけば、永年的に耕作を続けられ、木材を供給する森林も維持されるシステムが成立する。
これは、新しい発想の計画ではなく、古来から行われていた焼畑農法そのままのシステムである。
なんとも疲れた。インドネシアに来て、最も緊張し、最も疲れた日だ。
明日はブキットバンキライへいく。奥様も娘さんたちも一緒だ。