Borneo Indonesia
Samarinda 20030519
日本へ帰る準備でおおわらわ/
Busyness for returning to Japan
デスクワーク/Desk work
2003年5月19日(月)
早速イミグレーションによる。なんでも大学からの文書が必要だとか。なにもイミグレーションに報告せずに出発していたら、またまた大変なことになるところだった。危ない!危ない!
院生アリのロタン種子の重量分布についてまとめる。どうも種子重量の測定は、測定項目ごとに固体が一致していないようだ。とするとこの前の大発見は、ばかばかしい間違えか。とたんにつまらない話になってしまった。
2003年5月20日(火)
再度、イミグレーションによりパスポートとキタスと大学からの文書と願い書を提出。午後になって、イミグレーションの職員がカントールへパスポートを配達してきた。配達なんて普通のことではないが、特急用のFeeをアブ先生が払っているので特別扱い。
キタスは既に返納され、その証拠がパスポートにスタンプされていた。ここではじめて発覚したのは、私のビザはすでにサマリンダのイミグレーションによって11月23日まで延長されていたのだそうだ。なに?どういうことだ?たしかにサマリンダについたときに押してもらったスタンプには23nov03と記入されている。これが変更後のビザ期限らしい。なんということだ。
そういえばインドネシア到着が11月23日だったので、ジャカルタのイミグレーションでもらった書類には6ヶ月間ぴったりの5月23日が記されていた。それがいざサマリンダのイミグレーションで手続きしているうちに11月23日が記された。きっとただの間違えだったのか、アブ先生の工作だったのだろう。現実にはもう意味がない。
帰国途中にダーウィンに立ち寄ることと、今度の手続きは関係がなさそうだ。この手続きは外国人登録抹消の手続きで、サマリンダのイミグレーションの管理下から離れ、帰国の許可をもらったということらしい。
イミグレーションの仕組みは最後まで良く分からないままだった。それにしてもいろいろなことがあった。パスポートにいろいろなスタンプが押されているが、ひとつひとつをみると、その時々でおかしな問題を抱えていたことを思い出し、顔が緩む。まだなにかおきるかもしれない。
ジャバール先生がタラカンからやってきた。アブカントールまで、来てくれた。アブドゥヌゥール先生の件だった。10月23日に日本へいけるので、そのとき本人と一緒に本江先生ところへ行きたいとのこと。本人からも論文の件をいろいろ尋ねたが、インドネシアの論文でいいのか?日本のジャーナルでなくていいのか心配している。今一番日本の学会事情をよく理解しているインドネシア人かもしれない。とにかく信頼できる先生だ。わざわざ訪問してくれたり、日本に来るときも本当は長崎に行かなければならないのにわざわざ藤沢へ来ると言うし、日本の心も知っている。
2003年5月21日(水)記載なし
2003年5月22日(木)記載なし
2003年5月23日(金)記載なし
2003年5月24日(土)記載なし
2003年5月25日(日)記載なし
2003年5月26日(月)記載なし
2003年5月27日(火)記載なし
2003年5月28日(水)記載なし
日記を書く余裕もなく、帰国準備のためただただ時が過ぎてしまった。多くの皆さんにお世話になった。ありがとうございました。
2003年5月29日(木)
朝6時前、下宿のトゥングル一家に別れを告げ、バリクパパンに向かう。いつものようにパルディさんの運転、アブ先生と奥様、有薗も同行。バリクパパンの空港でお別れの挨拶。アブ先生は、搭乗口までついてきてくれた。最後の言葉は「また来てください」「また来るね」だった。
バリクパパンから一旦ジャカルタへ。ジャカルタからデンパサールを経て、ダーウインに向かう。ジャカルタの待ち時間は10時間。とんでもない時間だ。これだけあれば、東京どころか家について昼寝できる。仕方が無いので、トランジットホテルでショートステイ。バリに到着すると、いろいろと仕事があった。バリまではドメスティックのフライトなので、荷物を一旦ピックアップ。そして改めてチェックイン。空港使用料を払って。フィジカルチェックの免除交渉。LPIの手紙を見せて、研究計画書を見せて、ただにしろと。今回は簡単に納得してもらえた。1万5千円の儲け?
ダーウインへは深夜のフライト。朝早く着く。