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Borneo Indonesia

Talakan 20030214

ボルネオ一周の旅/
Trip around Borneo


一周旅行の前に/
Before the trip Borneo

2003年2月14日(金)
 今日はタラカンへ向かう。いつものように着替えとPCセットを準備。 今度は、タオルを持つ。パシールでは困った。
 午前中はアブ先生が若者4人を集めて、日本から来る学生の対応について打ち合わせ。
 費用も6ジュタRpに決定。その結果を本江先生あてのメールに書きとめるが、換算率やら送金先やら考えたり、調べたり、時間がかかりすぎる。またまた、いろいろなことができないまま出発。メールはタラカンで送ろう。またどこかで電話を借りよう。
 飛行機はサマリンダから、ブラオによってタラカンへ。タラカンではカダール先生が待っていた。カダール先生の車で宿舎へ。宿舎とは知り合いの会社のゲストハウス。  カダール先生としばし面談。本江先生と打ち合わせ済みの用件を再度伝えるが、カダール先生は、持病が思わしくなく学長を辞めるとのこと。5人の若い先生の件はなかったことになってしまった。せっかくだから、明日はボルネオ大学の学長室を見にこいとのことになった。
 タラカンでの用事がいきなり済んだので「明日タワオに行こう」とアブ先生はいうが、「そんなにいきなりタラカンを去ったらカダール先生に悪いよ」と反論。しかし、「大丈夫、大丈夫」と強行にマレーシア入りを決められてしまった。ボートでマレーシアへ行こうということだ。
 このゲストハウスには外に出せる電話はなく、メールが出せない。本江先生に電話してかけなおしてもらった。カダール先生の件、学生来訪の件、明日からの予定の件の状況報告。また研究室にいる学生ひとりひとりからメッセージをもらった。ありがたいが、変わらぬ人々だ。
 会社のゲストハウスは、海の見える丘の上にある。ゲストルームだけがあるのではなく、事務所と、社宅が周辺に集まっている。夕食のために、丘を歩いて下っていると、日本風の石垣があちこちにある。そういえば、タラカンには日本軍の燃料供給基地があったような気がする。旧日本軍の施設がこの丘にあったのではなかろうか。それが正しければ、ゲストハウスのホールになぜか日本の戦闘機「隼」の写真がかけてあったのもうなずけるが、よくは分からない。
 丘から降りると、車の往来の多い通りに出た。タクシーコタに乗り、町へ。換金所やボートの切符売り場や、イミグレーションなどそれぞれの場所を確認したり、情報を集めて、食事。焼き魚料理を食べた。前にカダール先生につれてきてもらったのと同じ店だ。
 明日は、いろいろ済ませてボートに乗るから早起きしようとのことで、早く寝た。

2003年2月15日(土)
 朝早く起きて、荷物をまとめ、会社の車で船着場へ向かった。今日は出航日のはずで、きてみたわけだが、ボート乗り場の様子を見ると、タワオとの間を往復するボートはあるが、出航する気配も、客が集まる様子もない。イミグレーションへ行ってみると、閉まっている。
 運行スケジュールは曜日で示されていて、土曜日は出航日にはなっているが、月終わりの土曜日はイミグレーションをはじめ、公務員の休みで、そのせいで出航しないのだという。飛行機のイミグレーションはいつもやっているのに?よくわからん。とにかく出航はしない。
 結局、朝飯を食って、荷物を持って同じ宿舎にバック。昨日の約束通りにカダール先生が迎えに来て、ボルネオ大学へいった。大学はまだ設立3年目で就学生数は1500名だそうだ。建物は建設中で、学生は古い建物を使って、授業を受けている。
 昼食を取ってマレーシア行きの情報を集め、「ボートも飛行機も月曜に出る、明日は何も出ない」ということで、ボートの切符だけ買って、宿舎に戻り、寝る。
起きたらまた飯。また、丘を下る。歩いていると、車が1台我々の脇に止まり、大声でアブ先生を呼んだ。車の中には2人。この会社の人らしいが、親密な間柄のように見える。早速勧められて、車に乗り、一緒に食事に行くことになった。この2人はアブ先生の年齢に近いムラワルマンの卒業生だった。
 食事が終わって、一緒になった人の家で電話を借りることになり、連れて行かれると、なんとそこは、午前中に立ち寄ったボルネオ大学の直ぐ隣だった。サマリンダで出せなかったメールを出した。その間、アブ先生は卒業生と話しこんでいる。いろいろ話をしているうちに、明日の予定が出来上がっていた。タラカンの天然林と合板工場の見学をするそうだ。


2003年2月16日(日)

イニフタニの樹木園/
Arboretum of INHUTANI Tarakan

 朝はゆっくりめに起きて、カダール先生の迎えを待つ。カダール先生宅で朝食をご馳走になった。朝からナシゴレンと海老のから揚げを腹いっぱいいただいた。海老はタラカンの特産物らしい。ただタラカンには養殖場はない。向かいのデルタでたくさん養殖している。奥様も日本語を話す。日本にいたのだったろうか?覚えていない。
 朝食を済ませると、ボルネオ大学の隣の卒業生のところへ連れていってもらい、車をチェンジ。卒業生の車にのって、会社の苗畑へ向かった。苗畑は植物園のようで、裏山には天然林を持っている。アガチスとメランティの山で、散歩道が作られ、公園のようだった。


合板工場/
Plywood factory

  次は合板工場へ、日曜日だから稼動していない。この会社も普通は見学お断りだそうなので、社員の卒業生の案内で、もぐりの見学。おまけに写真まで撮ってしまった。皮むき機が6台、小さい径の木材を剥くものと、大きい径を剥くものとがあり、使い分けている。機械に「ウロコ製作所」というプレートが貼ってあり日本製のようだった。機械の後ろには長いラインがあって、最後にコンパネがたくさん積んである。


在留外国人への厳重な出入国管理
安易に臨んだ罰/
Severe immigration control for the foreign resident
Punishment of the rule contempt

2003年2月17日(月)
 早起きして、卒業生に連れて行ってもらい、勇んで港に向かったが、なんとイミグレーションでストップ。私のビザでは、海外に出るとき、サマリンダのイミグレーションから許可をもらわなければならない。タワオへの道は突然閉ざされた。
 出発前からこんなことになるのではと、予想も覚悟もしていた。何もないはずはない。元からこのことは心配で、本江先生や白井に尋ねていた件だから、アブ先生にも数度同じことを尋ねていた。タラカンへの出発までが、あまりにもあわただしくかったこともあり、アブ先生の「心配ない」の返事を頼りに、サマリンダのイミグレーションには何のアクセスをしてこなかったので、心配の種だった。結果はこれだ。
 しかし、最終結果にたどり着くには、まだまだ先があった。アブ先生は、この期におよんでも「心配ない」を繰り返して言う。「いったいどうする気だ?」
 ボートを即座にキャンセルして、港のイミグレーションを後にした。「午後の飛行機でタワオへ行きます」という。空港のイミグレーションだって、答えは一緒なはずだが?  向かったところは空港ではなく、タラカンのイミグレーションオフィス。サマリンダのイミグレーションオフィスとは同格で、管轄地域違いの関係にある。「ここにも卒業生がいます」。こちらの不手際をここで解消してしまおうということらしい。しかし、所轄が違うのに。
 「ここで待っていてください」といわれオフィスの玄関ホールで長い時間待たされた。しばらくして、戻ってくると、作戦を告げた。まず大学のワワン学部長から法務省のサマリンダ支庁にFAXで文書を送付、次に法務省からタラカンのイミグレーションへ特別措置の依頼状を送付、イミグレーションがこれを受けて、ヘッドの責任で、私の出国許可のスタンプを押すというシナリオらしい。「?????」とんでもないことをする人だ、アブ先生は……
 しかし、これではサマリンダのイミグレーションを通していないので、あとでオーストラリアへの出国許可をもらうときに一悶着ありそうな?先の心配が沸いてきた。
 とにかくFAXのやり取りを待つことになった。しかし、文面は娘のキキが打ち、大学へ持って行って、ワワン先生はサインだけ、法務省に送るのもキキ。キキも大変だ。帰ったらお礼しなくては。最初作ったものはパスポート番号や、大学の文書番号が落ちていて、ワワン先生の所へ2度いったとか。飛行機の出発時刻は迫ってくるが待つしかない。


 FAXのやり取りの間ただ待つだけでなく手を尽くそうと、今度はタラカン市長にお願いしに行くことになった。市長とイミグレーションは関係あるのか?わけもわからないし、なんだか恥ずかしいが、なりゆき上しかたない。だんだんことが大きくなっていく。そのうちメガワティ大統領まで登場してきたらどうしよう。
 市役所へ行って、市長にアポ無しで面会。秘書には一旦断られたが、ほどなく通され、アブ先生は市長と仲良く挨拶、私も一緒に握手をして市長の机の前に座る。はじめはアブ先生今回の件とは全く違う話をしているようで、市長と意気投合しているようだった。もともと知り合いらしい。そういえば、タラカン市長は下宿の大主人のルスリーさんの親友だという話を聞いたことがある。この市長、相当な紳士だ。いままでも、クタイ知事や東カリマンタンの知事という人に出会ったことがあるが、その中では見るからに紳士的な姿勢や態度がにじみ出ている。
 実は……という感じで、私の出国手続きに関する話に入っていった。市長はアブ先生の説明をじっくり最後まで聞き、「それでは、イミグレーションのヘッドに電話してみよう、しかし、わたしはなぜ出国できないのかを質問することしかできない」と私に向かって英語で伝えた。
 とにかく、責任者に電話してくれた。電話が済んで再び英語で私に「あなたは、サマリンダに戻って、イミグレーションの許可を得るべきです。それから、再びタラカンにきて、タワオへ向かうのが最も良い方法です、わかりましたか」と告げられた。全くその通りなので「Yes sir」と答えた。アブ先生は、またこの話とは別の話をし始めた。この話ははじめからなかったかのように。
 市長のもとを離れ再びイミグレーションに向かう途中アブ先生は「市長にはイミグレーションを動かす力はない、でも電話してくれました、状況は変わります」という。私にはとにかく何のことやらよくわからない。飛行機の出発時刻の1時間前になっていた。  イミグレーションに戻ると、アブ先生が言った通り、事態は急変。既にパスポートにスタンプが押されていた。空港のイミグレーションにも、航空会社にも連絡がいき、私たちが飛行機に乗るまで、出発しないから、早く空港に行けということだ。「市長の電話がききました」
 この一件でこの朝に一体何人の人が動いたのだろう?とにかく申し訳ありません。
 とにかく無事にタワオに着いた。

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