Borneo Indonesia
Tunjung 20021209
タンジュンへの旅/Trip to Tunjung
沿道の森林を眺めながら/
looking at the forest along a road
2002年12月9日(月)
一路バリクパパンの警察へ向かう。その後は中央カリマンタンと南カリマンタンへ見学に行くとのこと。サマリンダからバリクパパンの道は丘陵地帯を走っている。ジャカルタからサマリンダに着いたときにここは通ったが、夜だったので景色を見るのは初めてだ。
周囲は二次林であったり、原野であったり、農地であったりするが、大きな森林はまったくない。およそ20年前、本江先生が1年間滞在していたころ、ここは原生林のなかの道だったそうだ。それから現在までの間に、ほとんどが伐採され、その後二次林が形成されたり、造林したり、農地開発が行われたり、いろいろな土地利用が行われた結果、今見ている風景があるわけだ。日本にいてもよく話題にでてくる広大なアランアランの原野も見られる。
アランアランのことが気になったので聞いてみると、伝統的な焼き畑農法・shifting cultivation をしないで、同じ土地を何度も焼いて、作付けするので、土地がやせてアランアランの原野になるのだということだった。アグロフォレストリーを実行していれば、アランアランは侵入してこないとアブ先生は力説する。
しかし、できてしまったアランアランの原野はこれからどうしたらいいのだろう。土地はやせてしまったから、作物は難しい。時間のかかるのを覚悟で造林するしかないのだろう。

今度は「アカシアマンギュームの密度が高すぎて困る。何年たっても、チップ工場へ持っていける太さにならない」という説明を受けた。「間伐はしないの?」「お金がかかるからしません」「じゃ、自然に競争させて、太い木ができるのを待つの?」「待っている間に山火事が起きて、また新しい細い木がたくさん出てくる」だそうだ。
アブ先生はどうも、アカシアマンギュームの森林造りはだめだといいたいらしい。金をかけて植える割に、収益を出せないうちに、山火事がきてしまうしから、間伐に費用を投じるのも危険がおおきいからなのだろう。
「だめだ、だめだばかり言うけど、じゃ、どうすればいいの?」「アグロフォレストリーです」。なるほど、それがいいたかったのか。
バリクパパンでの長い時間/
Long time in Balikpapan
3時間ほどでバリクパパンに着いたが、警察本部には人影が少ない。アブ先生「どうしたのこれは」と日本語でつぶやいている。働いている警察官に聞いた結果、今年は、正月6日、7日を挟んで1週間、役所・公務員は休みになったのだと、アブ先生がききだした。「どうしてアブ先生は知らないの?」「今年だけ、いつもじゃない、4日に政府が発表した、大統領がかわったから新しくなった」。警察のオフィスは11日まで休み、12日に戻ればよいということになって、警察を後にした。
そういえば、私の出張計画は12月1日出発の予定だったから、そのまま来ていたら、役所の休みに出くわして、ジャカルタに3週間ほどいなければならなかったにちがいない。
目的地は南カリマンタンのタンジュン。地図上では200kmぐらいのだが、アブ先生はバリクパパンから300kmあるという。地図上の道よりよほど曲がりくねっているのだろう。
バリクパパンを出発したのは、昼食をとり終わった13時ごろで、出発するや否や大難関が待ち受けていた。タンジュンへ行くには、バリクパパンの湾を渡るフェリーに乗らなければいけない。これが正月休みのせいで大混雑の渋滞。みんなエンジンも切って、ドアも窓も開けて、外に出て順番待ち。回りの人の言うことには乗れるのは5時ごろではないかということだ。この暑い中大変な話だ。夏休みに青函フェリーに乗るのに似ている。
船を見に行ったが、普通車が10台、バス・トラックが1台ぐらいが限度。これでは本当に何時になるか分からない。
強い陽射しのなか、マングローブを見たり、店で飲みものを飲んだり、食ったりしたがどうにも時間をもてあます。屋根のあるところで、トランプで博打をしている集団がいて、その隣にベンチがあったので、そこにおちついた。博打の様子を見ながらアブ先生と四方山話。なにせ熱いので、会話も途切れ、途切れ。さすがのアブ先生も、まじめな勉強の話はしない。そのうち、アブ先生はひとりでどこかへ去っていった。





一人でぽつんと汗を拭きながらぼーっとしていると、年配のおじさんがインドネシア語でぺらぺら話しかけてきた。なにもわからないので、「I can not speak basa Indonesia」と答えると今度は英語で「Oh, ya. Where do you from.」「From Japan.」「Oh Japan. I’m born in Jpan, Osaka, 1929. My father and mother worked in Japan. We came back to Indonesia 1942. I remember Japanese music “tuturata tatatata tuturatata”;軍艦マーチ」とぺらぺら喋ってきた。ずいぶんな年のわりに若く見えるな。太平洋戦争前に日本で生まれて、戦争中日本軍が劣勢に転じたころに帰ってきたことになる。
この人の英語、他のインドネシアの人に比べると聞こえてきやすい。日本人がしゃべる英語に近い。他の人の英語は「where」だって「ふぇり」に聞こえて、そのさき解読不能状態になるのが常。単語のやりとりで終わってしまう。
聞いていると、この前までジャワで日本の建設会社に雇われて、機械を動かしていた。日本のエイジェントの名前は“やすたけ”だった。おはよう、今日は、さようならも知ってるぞ。いまは、首になってここへきて、バイクタクシーをしている。モービルもホンダだ。などといろいろ話してくれた。続けて、お前のいるところは、モービルライダーの休憩所だ。「あれ、ごめんなさい」「OK、OK、熱いし、この渋滞だからしかたがない」。
フェリーがついて、バイクタクシーの客が集まってきた。おじさんも客を見つけて仕事にでた。このバイクタクシー、客を後に乗せて荷物をひざの間に入れて客の希望のところへつれていく仕組み。バリクパパンの町まで連れていくのだろうか。何台ものバイクが客を乗せて動きだした。



4時出航の船に乗れた。1時間ほど乗って、下船。目的地まで300kmあるとすると、平均時速60kmで走っても5時間はかかる。アブ先生は3時間で着くと言ってるが、そんなはずはない。この人どんな計算してるのだろう、時速100kmで休みなしでやっと3時間だぞ???。ロスも入れれば6時間になる。しかし、運転手さんも3時間ぐらいのものだろうと言っている。オーノー、インドネシアの人は計算なんかしていない。つく時間につく。神様が知っていればいいのだ、きっと。
タンジュンへは、東カリマンタンと南カリマンタンの境になっている山岳地帯の峠を越えていく。くねくねの山道だ。細い道のわりに大型トラックが激しいスピードで走っていく。対向車も追い越してくるトラックもおそろしい。
予定時刻の午後9時にはまだ東カリマンタン内、9:30ごろ南カリマンタンとの境になる峠についた。運転手さんは疲れ気味。私が運転しようと言ってるのに、アブ先生が運転を始めた。眠かったが、寝ていられない。
アブ先生の運転でスピードが一挙にダウン。「私が運転するよ」といったが、相手にしてくれず、結局タンジュンの町に入ったのは11:30ごろ、ホテルに入ったのは12:00だった。走行距離は230km、300kmもない。途中食事と休憩2回1時間30分ぐらいの非走行時間。走行時間が5時間30分。運転手さんは平均時速50-60kmで走り、アブ先生は20-40kmぐらい。という計算はこの国では必要ないらしい。
ホテルに入る前に、若い夫妻が向かえてくれた。アブ先生の教え子らしく、ホテルの人ではないようだ。夜も遅いので、挨拶もそこそこに部屋に入った。
しかし、すごいホテルだ。ベッドとマンディールームしかない。北海道で似たようなボロ旅館に泊まったことがある。日本の場合は畳さえあればどうにでも使えるが、狭い部屋にベッド2つとマンディールーム=トイレが備わってしまうと、身動きできない。ここへアブ先生と同室。PCも持ってきたのにあまり意味はない。それでも冷えるクーラーがあるからいいか。
拠点タンジュン/Base Tanjung
2002年12月10日(火)
昨夜やっとたどり着いた街の名がタンジュン……
ホテルの部屋のドア外がベランダ状の廊下になっていて、テーブルと椅子が置いてある。朝起きて、それに腰掛けてタバコを吸っていると、ホテルのお兄さんがお茶と卵と芋の入ったタッパーをもってきた。これがここの朝食…アブ先生はまだ寝ているが、ふたりでこれを飲んだり食べたりするスペースもないし、先に戴いてしまおう。
立ち上がって、外の景色を見ると、サマリンダよりきれいなところだ。ジャカルタも、バリクパパンも部分的にはきれいにしてあるところはあるが、基本的には汚い。人の往来の激しいところは、放置されたゴミも多いし、人はごみを平気で投げ捨てる。
しかし、20-30年前の東京もそういえば汚かった。タバコ吸いは平気でポイ捨てしてたし、同じようにゴミをポイする人も多かった。東京がきれいになったのはつい最近のような気がする。この町は地方だから、人の往来も少ないし、ゴミも少ないからきれいに見えるのかもしれない。


変な実を見つけた。枝から紐ののれんのように吊下がった軸に行儀良く丸い実が着いている。食べれるのか、後で聞いてみよう。
アブ先生がおきてくると、やたらに忙しくなった。夕べのご夫妻がやってきて、紙包みを持ってきた。この中にナシゴレンが入っているのだとか。昼の弁当かなと思っていたら「早く食べてください」と叱られた。さっき食べたのに2度目の朝食。マンディーも交替で済ませ、着替え、靴下と運動靴を履いて出発準備。
ホテルの前に出て車に乗ろうとすると、「今日はこの車ではいけない、別の車が来ます、待ちましょう」。4輪駆動車が来るようだ。
待ってる間、アブ先生はやってきた夫妻としきりにおしゃべりしているので、さっき見つけた樹の実の写真を撮りにいった。アブ先生と夫妻がやってきたので実を指差して、あれはなにと尋ねると、「あれは・・・・?」と困った様子。夫妻に尋ねて、「xxxという樹です。カリマンタンでは普通みたことがない。ジャワから来たものです」。早速自分でも写真を撮り始めた。


若い夫妻の奥さんの方が卒業生で、樹の話も女性が一生懸命説明していた。てっきりだんなさんが教え子なのだと勘違いしていた。インドネシアもForestryを学ぶ女性が多いのだな。そういえば大学にも女性の数は多かった。
ガーデンフォレスト/
Garden Forest
4輪駆動車がやってきた。形はスズキのジムニそのもの、中を覗いてもやはりジムニ。しかし「Katana」と書いてある。大きさはジムニよりひとサイズ大きく、後部座席に大人がなんとか乗れるくらい。4輪駆動はやっぱりスズキだとか。
ちなみに、アブ車は会社の車で、運転手さんも会社の人。車名は「Mitsubishi KUDA」日本では見たことのないタイプの車。一見パジェロに似た4輪駆動車にみえるが、実はFR車。良く見れば形もパジェロとはだいぶ違う。パジェロの甥っ子という感じ。これでは、未舗装道路を走ることはできない。
そのKATANAにアブ先生と二人でのりこんだ。運転手と案内の人が同乗。パルディさんは居残り。車も案内の人もアブ先生の教え子の女性が手配したとのこと。
タンジュンは南カリマンタンの町。ここからから中央カリマンタンに入る。途中、石炭輸送専用のばかに広い道に出た。周りは湿地帯。湿地帯の中は歩くにも歩けないし、バンクがやたらにあってボートも通りにくいだろう。そんなところをただただ棒のように真っ直ぐ石炭のために道を作ったようだ。時々すごいスピードで、石炭満載の超大型トレーラー2台を牽引したトラックが追い越していく。路面はクレイ舗装。さほどほこりもたたない。毎日砂利まきと散水とローラーでメンテナンスをしているそうだ。
石炭輸送ハイウエィをあとにして、山村へ向かう街道にはいった。途中、これは魚の養魚箱だとか、果物を植えたガーデンフォレストだとか、この果物は何だとか、この植物はやせた土地の指標だとか、いちいち車をとめて次から次へ教えてもらうが、すでに頭はオーバーフロー。何一つ覚えられなかった。









粗放的焼畑か? シフティングカルチベーション?か/
Shifting cultivation or just a rough burnt field ?













伝統的木材収穫/
Traditional logging
これより先に店は無いというところで、昼食。例のスマトラ料理だった。写真をとっておこう。どうもカリマンタン料理というのはないらしい。

食事を済ませると、どんどん山道に入っていった。この山奥に焼畑から再生した森林があるという。いままでは、ただアブ先生の言う通り、教えられるままに「はいはい」とうなずくだけだったが、なんでこんな山奥まで焼畑跡地を見にくるの?という疑問がわいてきた。

目的地間近のところで、横に向いた大型トラックが道をふさいでいた。通路妨害だなこれは。きっと都市の運転手ならクラクションを鳴らして怒っているところだが、さすがに山間部専門の運転手。「1時間ほど見物して行こう」といったとか。

早速、なにをしているのかみんなで見物に車を降りた。初め見た限りでは、大型トラックは、伐採された大木を引き上げようとしているように見えた。しかし、引き上げているのはその大木を製材したブロックだった。引き上げているのも、細い丸太を軸にしてロープを巻きつけただけの手動ウインチで、さらにこの軸を細長い丸太を使って回転させ、ロープを巻いてトラックの荷台の方へ斜面の下から引き上げている。
木材はバンキライだそうだ。チェンソーでブロックに製材するらしい。法律上は盗採にあたるが、慣例でもあるとのこと。意識としては悪いことではなく神様が許した当たり前のことのようだ。製材品をひとつ引き上げたら、トラックはどいてくれた。




スンカイの森/
Sungkai Forest
目的地に進むと、急坂のでこぼこになり、車は4輪低速ギアにチェンジ。やっとのことで到着。すでに3時になっていた。到着地点は道の終点。すなわち伐採最前線。たしかに辺りは大きな樹が多い。しかし原生林とは思えない様相。
車を降りて歩き始めると伐倒された大木を見て「シュンケイ(スンカイ)です、先生」とアブ先生。少し興奮ぎみ。シュンケイが存在するということは、人が植えたことを示している。太さからして樹齢が60年以上であるから、そのころに人が住み、ここで焼畑をしていた証拠だという。
いきなりそういわれても納得できない。「シュンケイという樹木は天然にはいないものなの?」「カリマンタンには天然はありません」。このあたりの森林は天然林ではなく人工林ということになる。たてつづけに「これはドリアンです、焼畑をしていた証拠です」と、興奮したアブ先生が叫ぶ。「ドリアンも天然にはないもの?」「そうです、人が植えるものです」。わざわざ、こんなところまでやってくる理由が少しずつわかってきたような。









スンカイ林はかつて伝統的焼畑耕作が行われていたことを意味する
The Sungkai forest suggests that traditional sifting-cultivati was performed once

もっと詳しい説明を聞きたいが、ドリアンやシュンケイがどんな植物で、天然では本来どこのどんなところに分布するものなのかすら分からない私には、アブ先生の興奮状態についていけないで、あっけにとられている感じだった。
自分でよく見渡していると、ランプータンや他の果物の樹までみつかった。なるほど、果物の樹ばかりが生えているというのは妙な感じだ。そしてメランティもこの中に見つかった。60~80年ほど前、この土地の先住民ダヤック族の人たちがここへ住み。焼畑をしながら、果物の樹を植えた。さらに木材を作るための樹としてシュンケイを植えた。それらが現在の森林を造った。出来上がった森林の中に、原生林の構成要素のメランティが戻ってきた。ということである。
熱帯林では、住民が焼畑をするので森林が無くなり、アランアランの原野になっていくという話が時々聞こえてくるが、そうではなくて、古来伝統の焼畑・Sifting cultivationが行われていれば、森林は更新されているのだ。今、その見本を見にきているのか。ありがたみがやっと湧いてきた。探せばこういうところはそこいら中にあるんだろうな。
アブ先生はさらに興奮した。「先生、シュンケイの稚樹です、natural regeneration です、すごいね」。アブ先生のそばへ行くと、稚樹がいっぱい。1㎡に50cmぐらいの高さのものが30本ぐらいはある。「これシュンケイなの?」「そうシュンケイの稚樹です」「これなら町からずーとどこにでもあるよ」。車で降りるたびに植物を眺めていたので、気になっていた植物のひとつだ。葉の形がヌルデに良く似ていて、どこにでもある。きっと種子の伝搬性が良い、パイオニア的存在なのだろうと思っていたやつだ。
よくみるとなにか変。種子が落ちて出てきたにしては、やたらに集まって生えている。1本引っこ抜いてみると、隣のやつと繋がっているではないか。おー、ハリギリと同じだ。伐採しても、絶える種ではなさそうだ。逆に、どこにでも生えてたことからすると、自然界にやたらに持ち込むと、種組成を崩す危険もあるな……だんだん勝手なことを考え始めた。まあ来たばかりだから、ゆっくり勉強しよう。








遠くまでやってきた理由も少し見えて、なごり惜しくもある。またここへ来るチャンスはあるのだろうか?と思いつつ車は帰路を爆走した。
いくときによったレストランで今度は夕食、またまたスマトラ料理を腹いっぱい食った。
同じホテルに宿泊。使い方は慣れたので、昨日の様な戸惑いはない。が、重大事発生。転手のパルディさんがホテルの人と車の周りでうろうろ、困った様子。インロックだ。キタイ、キタイと呼んでいる。お前は車のことをよく知っているから、あけ方もわかるだろう、ということらしい。といっても若いころ、その時代の車を、針金で開けたことがあるぐらいで、今の車で試してあいたことはない。
日本だと、施設ごとにインロック対策ツールとマニュアルがあって、どの車種でもだいたい開けることができる。会社ごとにその仕組みが違うから、このツールにはいろいろな掛け鉤が刻んであって、それを使い分けるのだが、そんなものは絶対ここにはない。
ドアのガラスの隙間から針金を差し込んでみるが、かかったところを押すのか、引くのかわからないし、針金が細くて力に負けている。いろいろ試すがやはりだめ。「できません」と降参。 するとホテルの人が職人風のおじいさんをバイクに乗せてやってきた。かぎ屋だそうだ、いままでどこにいってたのか見つからなくて、やっと見つけて連れてきたのだそうだ。しかし何の道具も持ってきていない。どうやってあけるのかしばらく見ていたが、はじめは私と同じ様にやって、同じように挫折。何度も繰り返して、何度も挫折。しかし「できません」は言わない。やっぱり鍵のプロらしい。針金を切って、2本にした。1本は同じ様にガラスの隙間から鎖しこみ、ドアの取っ手の隙間から上に向けてもう1本を差し込んだ。「なるほど」と思ったが、何度試しても開かない。
見ているのもつかれたので、部屋に行ってちょっと休憩。かぎ屋のおじいさんは作業続行。30分もしたら開いた。どうして開いたのかたずねたら、おなじことを何回も繰り返し試しただけだそうだ。根気のいる技だな。めでたし、めでたし。
すっかり疲れたので、寝ようと思えば、アブ先生、「ナシゴレン」を食べに行こうと連れて行かれた。「食べ物はもういい、インドネシアに来てから太る一方だよ」と私はコピを飲み、アブ先生はナシゴレンを食べた。「コピ飲んで、眠れなくなるよ」「大丈夫、私はいつでも、どこでも寝れる」ホテルに戻ると言葉どおりすぐ寝た。
現在の一般的な焼畑/Shifting cultivation as extensive agriculture

バンキライの丸太/Bangkirai Log

2002年12月11日(水)
果実の名前/
Species of the fruit
昨日と同じように起きて、同じように若夫婦が朝食を買ってきた。今朝は朝食だけでなく、だんなさんが果物をいっぱい買ってきてくれた。食べさせるためではなく、昨日の朝、果物の話をしていたので、現物を見せてくれようとしたのだ。パンノキ、マンゴスチン、????、あとは知らない???アブ先生がいろいろ教えてはくれるが、やはり消化不良。写真に収めて、名前はあと!あと!









石炭運搬ハイウェイ/
Coal transportation highway
今日はロタン生産集落の見学だ。今日の運転手はまた別の人、案内人はだんなさん。運転手の人は昔石炭トラックの運転手だったとのこと。昨日と同じ石炭輸送の専用道路を走る。いつもこの道を走っていただけあって、すれ違うトレーラーの運転手は知り合いだらけ。手をあげて合図したり、クラクションを鳴らしたり、挨拶に大変だ。
今日はこの道を終点までいって川にでるのだそうだ。石炭輸送トラックも、川が終着点、そこから石炭を船にのせる。長い湿原地帯の道をただただまっすぐ。両側にはところどころ、樹木が焼けたあとがある。山火事のあとだとか、湿原にも火事はあるらしい。









ロタン生産集落/
Rattan village
川につくとスピードボートに乗り換え。西表島でいつも乗っているやつとほとんど一緒だ。ここまできた運転手さんは、われわれの帰りまで寝て待つとのこと。 スピードボートで30分も川を上ると、集落が見え、やや大きめの輸送船が泊まっていた。輸送船にはロタンが満載。ちょうど積み込みの最中だったようだ。


若夫婦のだんなさんに案内されて、集落の長のところへ。アブ先生はしきりにいろいろな質問をしているようだ。この長、どことなく風貌が水上の阿部さんに似ている。粟沢の集落へ遊びにきたような気になってきた。この人が私にむかっていうには「おい、このロタンを日本で売らないか、マレーシアや中国に売るのはもう飽きた、日本なら高く買ってくれるだろう」。どこかでおなじようなことをいわれたような気がする。



インドネシアの村では、みんなで一緒に仕事をする。大人も子供も男も女も。船着場の近くに長の家があって、その周りにロタンの仕事場がある。集落の周りの森林からロタンを採取して、ここに集めてくる。節のささくれを落としたり、まっすぐに伸ばしたり、乾燥させたりする様子を、長が案内してくれた。


アブ先生が採取する様子を、写真に撮りたいといって、無理やり村の若者がかりだされ、収穫のデモンストレーションをすることになった。若者は4mほどの長い棒を家の縁の下から引きずり出し、そのまま引きずりながら歩き出した。腰にはいわゆるバントウ、ナタの長いやつをぶる下げている。
集落からしばらく歩いて、収穫どきのロタンが見つかると、周りにある細いロタンを切って、引きずっていた棒に金具を取り付けていた。細いロタンは金具を取り付けるロープとなった。金具は引っ掛けるための鉤と刃からなっている。これを取り付けた棒で、ロタンの枝を落としたり、幹を引っ張ったりして、手元にもってくる。ロタンの刺は鋭く痛い。しかも高く這い上がっている。この棒は遠隔操作棒なのだ。
手元に持ってきたロタンを、ナイフでたたくと、ロタンの刺は皮ごとパラパラと落ちていく、裸になったロタンをさらに引っ張ると、絡んでいた木から外れて落ちてくる。パンパンとさらにたたくと、先の方まで丸裸になった。これを束ねて、仕事場へもっていくのだそうだ。



これを見ていた同じ場所に池があった。水は満水。落ちたらお前は沈んでしまう。深さはお前の背の2倍はある。とジェスチャーで、村の人が教えてくれた。なんでこんな池があるのだろう。
深い穴を掘っておくと、雨季の洪水で、氾濫した水がここにたまり、水が引くと池になるのだとか。氾濫の時、穴には魚もたくさんやってくるという。これは自然の節理を上手に利用した養魚池なのだ。
この穴を持っていれば、1年中1家族が毎日魚を食べることができるばかりか、売って生活できるそうだ。村の人でも、ロタンの仕事が嫌いな人はこの池をあちこちに掘って、魚の仕事をするそうだ。そうすれば、ロタンの仕事はしなくても魚でもうけられる。しかし、その深さの穴を掘るのは大変な仕事だ。幅約2m、長さ5~10m、深さは3~4m。土をあげることを考えたら、人力で行うのは大変な重労働。私ならロタンの仕事でいいかな。




案内をしてもらっている間、日本人が来たと村中に知れ渡ったのか、いろいろな人が我々の周りを取り巻いて、ガヤガヤ。時々日本語が村の人から発声され。手をあげて答えるとそのたびに「オー」という感嘆の声があがって、みんな喜んでいた。
ロタン生産の集落、というより川辺の集落の様子を見学することができ、またスピードボートに乗り込んだ。船着場には村中のひとが集まって、見送ってくれる?ひやかし?ボートが離れていくと「さよなら」「またこい」「ごきげんよう」と叫んで手を振ってくれた。それにしても楽しい毎日だ。
ボートに乗りながら、紙包みのナシゴレンを食べて、帰路に付く。
一路バリクパパンへ、あの長い距離をいっきに走るのだから運転手のパルディさんも大変だ。タンジュンの平地は30分ほどで終わり。どんどん上っていて、くねくねの山岳地帯の道路だから、思うようには早く走れない。私は風景を見ながら、ただ乗っているだけ。運転させろと言ってるのに。暗くなったら景色も無く、寝た。
途中食事をとって、12時を回って、バリクパパンのホテルに入った。
2002年12月12日(木)
朝起きてバリクパパンの警察本部へ行った。やっと休みが明けたようだ。制服警察官がたくさんいる。担当オフィスにいくと、早速手続き、サマリンダからの連絡はちゃんときてたようで、書くべき書類がFAXと一緒に準備されていた。またまた指紋押捺で登録完了。
さほどの時間もかからず、警察を後にすることができた。サマリンダの帰路につく。
サマリンダへ帰着したのは14:30ごろ。予約の日程より早くなったが、念願のインターナショナルホテルメスラに入る。★★★ホテルだ。
入るなり、直ぐPCのインターネット設定。何のことはない、1発で接続。しかし個人登録のページに示されたクリックボタンや入力指示がすべてインドネシア語で、英語も無く、登録、名前、住所・・・・など辞書を引き引き、入力した。1時間はかかってしまったろうか。とにかく完了。メールアドレスを取得。
早速、関連の人にメールを配信。インターネットで銀行関係の照会操作や日大のメールチェックをしてみる。
トランクを運びにアブ先生が来てくれたが、また来るといって帰っていった。トランクから一組の着替えを出して、久々のシャワー。
ここにはバスタブもある。インドネシアに来て初めてのバスタブだ。しかもお湯まででた。喜んでバスタブにお湯をはった。しかし、時間がたつにつれ、お湯は水に変わった。バスタブは暖かいプールぐらい。それでも、お湯に浸かれるありがたみを感じて、感激。
考えてみたら、着れる着替えは一組。残りは洗濯物。明日着るものはすでに無い。アブ先生の家に頼んでも直ぐにはできないし、ホテルのランドリーサービスに電話して、とりに来てもらった。しかし、いつできることやらと思っていたら、なんと1時間半でもってきた。驚いて「ラピッド」と口走ったら、ランドリーサービスのお兄さん、親指をたてて「バグース」といって、置いて帰った。あれ?チップを渡すべきだったのだろうか?まぁいいや。
アブ先生が再び晩飯に迎えに来る。奥様と一番下の娘さんも一緒。10分走って、きれいな店についた。ここなら日本でもレストランと呼ぶにあたいする。やっぱり奥様がいると、野菜料理をオーダー、「せんせい、肉、いいよ、とり、やぎ、うし、なに」と日本語で言ってくれた。しかし、体に優しそうなので野菜料理にしてもらった。